信玄の兵が越えた峠だから兵越峠と名付けられたとか。
交通量の少ない峠らしい峠でした。
長野県飯田市の遠山郷から浜松へ抜けようとしていました。
カーナビには直接浜松に入る道が無く、遠回りさせられのですが、実際に行ってみたら浜松への案内標識がありました。
ちょっと不安でしたが案内標識通り進んでみることにしました。
対向車がきたら困るような細い、けど舗装がキチンとされ、手入れがされている道を上っていくと峠らしいところに出ましたよ。
急に前方が開けて静岡県、浜松市、天竜区の境界案内板が見えてきました。
後ろを振り返れば「ようこそ遠山郷へ」の看板が。
上の写真右手に車が上がれる坂がありますが、その先に駐車場がありました。
元は茶店の駐車場のようです。
県境近くには兵越峠の由来案内板がありました。
文字がかすれてきていて読みにくいのですが、以下、案内板を読み取ってみました。
此の峠を兵越峠名づけたのは武田信玄が、上洛を志し、元亀三年(一五七三)十月(新暦十一月十八日)約二萬五千の大軍を率いて、信濃國遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠を越したと言われている。
信玄が上洛のため信濃國、遠江國の國境の峠を越すことに、意を決めたのは信玄の家来秋山信友が、永禄十一年(一五六八)、遠江國奥山、天野の両氏を味方につけるためこの峠を越し、探索ののち五年後、天野氏を道案内として、天野氏居城に向かったのである。
この国境にある二つの峠は、青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしているが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため、雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食糧などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもの
両峠は十月十日(新暦十一月二十五日)に越し南下したのである。
この峠は信玄の兵が越したと言われるゆかりの峠である。
世(古に見えるが?)の中の進歩が歴史の道を、そして峠を忘却の彼方に押し流そうとしている。それがどんなに歴史的な意義があろうが、なかろうが・・・・・・
遠山郷から上がってきた頂上付近右手に青崩峠への遊歩道入り口がありました。
いつか青崩峠にも行ってみたいものです。
TVのニュースで見た「峠の国盗り綱引き合戦」の県境がありましたよ。
信州軍が「太平洋を信州に」を合言葉に頑張り、現在は1mだけ国境が静岡県側にあるそうです。
信州軍が連勝を続ければ6万5千年後に太平洋に届くそうですよ。
→ 遠山郷観光協会
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